高昌と唐との関係
玄装が訪問したころ、高昌と唐との関係は良好だったが、12年後の貞観十四年(六四〇年)関係が悪化し、唐はこの漢人王国の高昌を滅ぼし、安西都護府の管轄下に置いたのである。
高昌国滅亡当時このまちの人口は三万6000で、戸数8000といわれている。
古習臼はおそらく、武帝時代に漢人の屯田によってひらかれたと思われる。
はじめは、「高昌壁」と呼ばれたのだから、人が住みはじめると、すぐに壁でその地域を囲ったらしい。
城と呼ぶにはまだお粗末だったので、遠慮して壁と称したのだろう。
その後、しだいに充実したので、城と呼ぶのがふつうになった。